8月31日(月)

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 衆院選も終わって、これからが本番だ。何が変わるのか、あるいは誰が事実を正しく把握しているのかを注視しなければならない。
 それにつけても政治家は体力勝負だと思う。クリエイターもそれは同じ。体力勝負というのは体力の絶対値を指すのではなく、常に余力を残すことだ。無理がきくというのはあまりよいことではない。無理はよくない。余力を残す生き方が重要だ。真夜中に不整脈を起こすまで楽譜を書き続けるようなマネをしなくとも、インスピレーションを有効に生かす手だてを身につけることだ。
 朝から台風11号の影響による雨。午後のレッスンを午前中に振り替えたので、ピアノはミュートされたまま。昨日はくたびれてユニゾン合わせができなかったので、午前中に作業をして午後のレッスンに間に合わせるつもりだった。これからそのユニゾン合わせ。ユニゾンは可能な限りぴったりと合わせる。どんなにぴったり合わせても翌日には微妙なズレが生じて複数弦によるコーラス効果が現れる。うまくいけば響きがふくよかになる。どのようなコーラス効果になるかは運次第。だから気にくわなければ、再度ユニゾンを合わせる。今朝、すでにもう一台のピアノのA4を合わせたが、なかなかぴったりとはいかない。日本音叉研究所の所長の音叉のユニゾン合わせの見事さには敬服するばかりだ。2本の音叉を同時に鳴らしても1本にしか聴こえない。調律は2台目のほうが難しい。
 土曜日に、金子一朗さんというアマチュアピアニストの方が書かれた「挑戦するピアニスト/独学の流儀」という本をお借りした。これが実に面白い。この人くらいのレベルになると、アマチュアなのかプロなのかということはどうでもよくなってしまうのだが、目的が徹底して「弾けるようになること」である。痛快と言えるくらい目的がクリア。とても頭脳明晰な人だ。
 まだ読了していないので詳しく書くことはできないが、次の点は誰もが陥る落とし穴ではないか。金子一朗さんについて書いているわけではなく、ピアノを弾く全ての人に対しての提言である。

「その作曲者が、どのような国のどのような民族で、どういう時代を過ごし、どういう価値観を持っていたかを知ることはとても大切である」

 私も大切だとは思う。ところが、そんなクオリア満載の感覚を本当に知ることは不可能ではないか。表現の最後の最後には文化ごとの流儀に従うことになるけれども、根底にあるのは全く逆の原理、つまり文化や時代が異なろうとも“揺るぎなく共通するもの”は何かということから始まらなければならない。だからこそ、数百年の時と文化の壁を超えて我々はバッハを演奏できる。しかし、当時のドイツの流儀を演奏に乗せる前に拍子(アクセントの位置)の確定、フレーズ長やペリオーデを明らかにしてからでないと、解釈そのものが成り立たない。作曲者のことを知る(作曲者を外側から見る)のではなく、作曲者の立場にたつ(作曲者の視点から見る)ことが音楽解釈の第一歩なのではないか。
 とは言うものの痛快な一冊。春秋社刊。
 
 21時30分追加更新

 ボルツマンはエントロピーの増大(熱力学第二法則とイコールと言ってよいのだろうか?)を証明したり、ボルツマン分布とかボルツマン方程式で知られている。しかし、音楽関係者にとっては、それよりも彼がブルックナーの弟子であったことのほうが重要かも知れない。
 今日は、ユリちゃん(中3)が海王星の色がきれいだというので、ボイジャーが撮影した海王星を見ているうちに「宇宙の熱的死」の話になった。簡単な説明であったにも関わらず、いきなりエントロピー増大則を理解した彼女は、やはり中学生の時に私がそうであったように感動とも驚きとも困惑ともつかない不思議な気分になったことは間違いなかった。それを最初に証明したのがブルックナーの弟子でもあったボルツマンだと知って「どうしてあたしたちはアインシュタインしか知らないんだろう」と言った。生命現象は一見するとエントロピーが減少しているようにも見える。作曲やピアノ演奏もそのように見えるところが面白い。ユリちゃんは、人間の想像力が宇宙の終焉にまで及んだことが何より神秘的だったようだ。
 事実に基づいた想像力はインスピレーションとなって、新しい音楽をも生み出す。