9月1日(火)

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 他人のブログに寝つけないなどと書いてあると「それがどうした」などと思ったりもするのだが、自分自身が寝つけなかった翌日は共感してしまうものだ。未明4時頃、頭もボンヤリしているし身体も動かないのに寝つけずに自らの運命を呪っていたらウトウトと眠って朝になった。今度から新しい就寝術である“運命を呪う法”で眠ることができるかも知れない(まさか)。
 朝、起床したものの動けず、時計代わりのテレビの前でゴロリとして体力の復活を待っていると、某政党の選対委員長らしき人の密着取材を放送していた。「この時点で180から、ひょっとすると200はいけると思っていた」。これはびっくり発言だ。傍目八目(おかめはちもく)の立場から言えば、彼は有権者と情報を共有していない可能性が高いということだ。
 もし、私が選対委員長、あるいはその近くの立場にいたら投票行動をとる有権者に与えられた情報を可能な限り集める。最も世論を動かせるのはマスメディア、それも議員の動きを逐一密着取材するような情報番組だから、それらを全て録画、主要部分を編集して自分の党の主要なメンバーに提供する。それから、決してネガティヴ・キャンペーンを行わない。悪口が発言者の品位を落とすことなど常識である。それが分からない人は、誰かが悪口を言うのを聞いた時に共感してしまうタイプの人だろう。しかし、気づけば変わるはずだ。
 「悪口ばかり書いてあるから新聞は読まない」と言い放った首相もいる。問題は有権者との情報共有である。裏を返せば、メディアは利用することもできるということだ。メディアに好感を持たれるように行動したり、メディアが人々に伝えやすい言葉を使う政治家もいる。
 テレビでの政治家の討論を聞いていると、必ずと言ってよいほど相手の発言中に反論を始める。なんともったいないことか。論理が首尾一貫していて論理に破綻がないという人はごく稀であり、もし論敵がそうであれば白旗を上げなければならないが、実際にはそういうことは少ない。政治討論のように論敵を打ち破ることが目的の場合には最後まで発言させて綻びを突けばよいのだ。それも、誤りを攻撃してはならない。綻びに気づかせるだけでよい。相手は、矛盾を打ち消すために必死になるが、矛盾はさらなる矛盾を生むから、うまく行けば自滅する。ここでいう自滅とは、視聴者が勝敗を決めることえではなく、本人が失敗を悟って戦意喪失することである。誰もが事実誤認をする。事実を把握することの難しさを最初に知らしめたのがレオナルドであるのに、500年たってもまだそのことに気づかない人もいる。
 有権者は風(ムード)に流されやすく、それを醸し出す最も大きな影響力を持つのがマスメディアである。番組によっては政治家よりも上目線で「しかし、◎×党には更なる問題点が残されているが、党役員たちはそのことに気づいているのだろうか・・」などという語り口を取ることもあって、視聴者にテレビのほうがエライような錯覚を起こさせることもあることだろう。テレビ局だって政治家たちを理解しているわけではない。番組の取材スタッフに現職議員と討論させれば彼らの事実認識の内容が分かることだろう。記者会見における質問事項にも的外れなものがあることからもそれは窺える。
 さて、今まで書いてきた文章によって、私が政治音痴であることに気づいた方もおられることだろう。読む人によっては、私が政治について書いたと思われたかも知れない。しかし、政策や政局については一言も言及していない。というより言及するだけの材料すら持ち合わせていない。要するに政治音痴なのだ。だから、ここでは選挙というひとつのケースを取り上げて、事実の認識、情報の取捨選択と共有という問題について述べたに過ぎない。これを裁判をケースとして取り上げることもできたし、ライプニッツニュートンの論争を基に語ることもできだことだろう。そうすると、前者の場合には「裁判について書いた」、後者の場合には「科学について書いた」と言われることもあるかも知れない。しかし、これもただの言葉にすぎない。ひょっとしたら私を「鋭敏な政治分析感覚を持っている」などと判断する人もいるかも知れないし「とんでもないホラ吹き男」と看破する人もいるかも知れない。いずれにせよ、それが事実を把握する力ということだ。
 睡眠不足で機嫌が悪いのか、今日は戯れ言を書いてしまった。
 これから気力を奮い立たせて、午後のレッスンまでに調律の最後の微調整を行なう。