9月2日(水)

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 またまた未明の就寝となってしまったが、今回は明確な理由がある。
 昨夜、今夜こそ早めに寝よう(眠らないと危ないという危機感があった)と、午前1時過ぎに「“シュッテルンク”の練習曲」を書き上げて、早々にPCをシャットダウン。例によってテレビの前でクールダウン。今日は「ファミリー・ヒストリー」という番組の再放送をしていた。漫才師、宮川大助さんの生まれる前の家族の物語。
 昭和16年、大工であった父親が満州鉄道に勤務するために朝鮮半島に渡る。高給を得て生活の安定を確信した父は、妻と3人の子どもを呼び寄せる。しかし、昭和20年、ソ連軍参戦により日本人は避難することになる。港も鉄道も爆撃で破壊され、最寄りの避難駅まで危険な山道を60km進まなければならない。母は、この地で生まれた乳飲み子を背負い、年下の娘と息子の手を引いて、父は食料など数十キロの物資を担いで、長女はひとり残りの荷物を持って、暗闇の危険な山道を追う。この時長女8歳。不眠不休で歩き続けるが、間もなく小さな子ども2人が歩けなくなる。荷物で精いっぱいの父と母が2人を抱きかかえて先へ進む。ソ連軍が彼らの後を追っており、いつ追いつかれるか分からないから休むわけにはいかなかった。ところが4日目に気丈な長女が「もう歩けない」と泣き始める。靴には豆がつぶれて血がにじみ、痛みと疲れに耐え切れなくなったのだった。父は長女を初めて殴り、叱咤し、心を鬼にして命のために歩き続けるように命じる。目的地直前で、満鉄が用意した避難用トラックに出くわした一家は、末子を除く3人を託す。翌日、父母は避難列車が出発する駅に到着するが、子どもたちは一本前の避難列車で先に行ったと聞かされる。遅れて目的地に到着した父母が見た光景はソ連軍の爆撃で破壊された避難列車の姿だった。しかし、何を逃れて別の都市に再避難した列車もあったと知り、一縷の望みをかけて、そちらへ向かう列車に乗り込む。ところが到着してみると、そこには4万人の日本人が避難していて子どもたちを見つけ出すのは容易ではなかった。体力も気力も尽きそうな中で捜索はつづいた。4日目、多数の子どもたちが避難している小学校があると聞いて行くと、そこに3人の子どもたちがうずくまって父母の到着を待っていた。8歳の長女が妹と弟をずっと励まし続けていたという。文章では伝わらないかも知れないが、ソ連爆撃機が頭上を飛び交う中、老人たちは山中で動けなくなり、その様子をまざまざと見てきた生き残りの人の「生き地獄だった」という証言を交えながら進む再現シーンを見ていると、普通に見ているのもこのあたりが限界で、涙が止まらなくなった。深夜で回りに誰もいないことをいいことに、大の大人がびえーびえー泣いてしまった。戦争の悲惨さにではない。家族愛とその強さ、そして奇跡の再会にである。もし、自分がこの立場にあったらこんなに強く生きられるだろうか。けなげな長女を抱きしめてあげたいと思った。
 昭和21年、一家は堺市に戻った。父は再び大工に戻ったが、劇貧の日々が始まる。堺でさらに3人の子が生まれ、7人兄弟となった。宮川大助さんは、その第6子だった。父は過去のことは一切語らず、宮川さんは、いま初めて家族の歴史を知ったという。もちろん、彼も泣いていた。日本中の視聴者が泣いていたかも知れない。長女はその後、地元の工業高校を出て大手電機メーカーへの就職を望んだが叶わず、鉄道の車内販売の仕事に就く。しかし、昭和32年(?)自ら命を絶ってしまう。理由は誰にも分からなかったと言う。本当にそうかもしれないし、放送では言えないこともあるかもしれない。しかし、悲劇だ。あの聡明な長女には幸せになって欲しかった。昭和57年、母が他界。それから父は仏像を彫り始める。その中には妻と亡くなった娘によく似た仏像があった。宮川さんは、姉の遺志を継いで同じ工業高校に入学、三菱電機への入社を果たした。父のためだった。寡黙な父が「オレのことなんか心配しなくていいのに」と母(?)にぽつっと語ったという。

 ああ、今日はもう眠るのは諦めたほうがよいと悟った。ファミリー・ヒストリーの再放送は市毛良枝さん、ルー・大柴さんと続き、それはそれで感動的だったが、ショックが尾を曳いて、画面を眺めていただけだった。
 自らにあらためて問いかける気などないのだが「きちんと生きているか」という思いがフラッシュバックする。宮川大助さんは、自らの人生観が大きく変わったことだろう。生き方そのものも変わるかも知れない。もし、私が多少なりとも優れているならば、私自身も変わるはずだ。
 再現ムービーに多少の脚色はあるだろうが、それはかまわない。もし、それに問題があるならば、全ての小説は興ざめであり、小説に感動する人間は馬鹿だということになるからだ。報道は事実に基づかなければならないが、完全な資料集めが不可能な場合には推量・推測なしでは再構成は不可能だろう。しかし、生き残った証言者を探し出して、実際に話を聞く映像を挟み込んでいたので、かなり正確な再現であったことを窺わせた。強烈な番組だった。司会のガレッジ・セールはがんばっていたが、少々力不足であったことは否めなかった。