9月4日(金)

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 数日前に、今月6日(日)にステージで私の曲を演奏してくださる尾崎知子さんからフルートソナタのリハーサルの録音が届いた。今回は、私の20代の終わりから40歳くらいまでに着想された作品が集中的に選ばれている。「夏の終わりに(1984)」は、20代の終わりに書かれており、まさに私の夏の終わりと重なっているような曲だ。先々週に通しリハーサルにお邪魔した時、すでに「夏の終わりに」は演奏が終わっていたのだが、遅れて入っていった私にフルーティストの中島恵さんが最初に言った言葉が「“夏の終わりに”ってすごくいい曲ですね」。
 じ〜ん。作曲家なんて単純だ。曲を褒められると、それだけで胸がつまってしまう。今度そんなことを言ったら泣いちゃうぞ。
 1984年の8月末、ミニバイクで浦和に楽譜を買いに出かけた帰り、突然の雨に降られて県庁前交差点ちかくの雨をしのげる路上で雨宿りをしていた。じっとしていられないタイプなので、ずっと新しい曲を歌っていた。雨が上がると、涼しくなった道を飛ばして帰宅、すぐに楽譜に書き起こした曲が「夏の終わりに」。
 フルートソナタは2001年の着想。2000年に中島恵さんのために書いた室内楽のための通称「夜の組曲」がとても気に入っていたのだが、楽器編成の特殊さゆえ演奏の機会が少ない。それで、同じコンセプト、しかし全く異なる曲として計画したもの。全楽章の完成に6年を要した。6年もかけると、こちらがどんどん成長するので、曲は次々と書き直される。第2楽章などは3回も“完成”しなければならなかった。目指したのは、当然のことながら「開かれた音楽」。たとえば、エレクトーンや吹奏楽のコンサートに集まるのはエレクトーンや吹奏楽の関係者ばかりだ。それで演奏されるのも、その世界でのみ知られる曲だったりする。これが閉じた音楽。ところが、この世界に天才が現れると状況は一変するに違いない。タンゴの世界がピアソラによって一気に開かれたように。
 ピアノやオーケストラの世界は、長い歴史のなかですでに開かれた音楽世界を持っており、ピアノを弾かない人だって聴きに集まる。ところが、オーケストラの個々の楽器となるとそうはいかない。ファゴットリサイタルに集まるのはファゴット関係者ではないだろうか。とてもポピュラーなフルートでさえ、開かれたレパートリーはごく少ない。フルートソナタを何曲知っているか数えてみれば、それがよくわかることだろう(フルート関係者以外限定)。ピアノの世界でも、20世紀前衛のように、広い客席に10数人しかいないという極めて閉じた世界もある。もちろん、開いた音楽のほうが絶対によいとは言わない。聴衆に迎合するだけの音楽は忘れ去られるからだ。しかし、そういう曲は歴史に対して「開かれていない」ので、やはり閉じた音楽ということになるだろう。
 私自身は、常に開かれた音楽を目指している(まるで実現はされていないのだけれど)。だからフルートソナタもそうありたいと思って書いた。手抜きはない(と思う)。しかし、全ての音楽愛好家にアピールできたかというと、まだ分からない。本当に開かれた音楽は100年後だって通用する。
 フルートソナタのリハーサルの録音に添えられた尾崎知子さんの短いメッセージ。
「この作品の繊細さ、緻密さ、大胆さ、新しさにあらためて感動しています」
 な、泣いちゃったじゃないか。