9月9日(水)

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 昨日、娘の “たろ”から「色即是空」を説明してほしいと求められた。般若心経に関する書物には事あるごとに目を通してきたが、自分自身が「般若心経」に関する解説書を書くくらいの志がなければすぐに答えるのは難しい。答えようとすると、何を知らないのかが自分自身でよく分かってくる。「色」とは自分の外なるもののことだが、実態とは限らない。たとえば娘が描いた石膏デッサンは、単に鉛筆の芯が紙に乗っているだけのことだ。だから「空」、つまり人間の認識であるに過ぎない。ところが、私の場合、すでにこのあたりから怪しい。「空」は物理学で言う「空間」、つまり「何もないこと」とイコールではない。しかし、これ以上のことがうまく説明できない。つまり、漠然としか理解していないということだ。若い頃、ウパニシャッド哲学のにおける“アートマン”と“ブラフマン”という概念に出会って目の前が開けたように思ったものだが、それとも関連する。
 音楽は、そのものが「色即是空」「空即是色」だ。ショパンは楽譜は未だ音楽そのものではないと考えていた。この真の意味はクオリアを含むので理解がカオス理論的になる(初期値によって結果が大きく変わる。つまり、そのクオリアを持つ指導者に出会えば誰もが理解できるが、不幸にしてそうでなかった場合、永遠に分からないこともあり得る)ので、いま、これを読んで“腑に落ちた(深く同意した)”かたと、“解った”と思った方に分かれたことだろう。
 私は仏教について少しも詳しくはないのだが、興味深く思っていることがいくつかある。そのひとつが「托鉢」と「物乞い」の違いである。
 托鉢というのは一人でしてはならないのだそうだ。最低3人以上。なぜなら3人以上で行動を共にするためには、なにかしらの約束事を守る必要がある。つまり共同で物事を行うということは、メンバーが最低限シンクロしなければならないことがあるということだ。その取り決めが戒律であり、これが守れない人はその集団に所属することができない。「戒」はしてはならないことで、「律」はしなければならないことを指す。修業を積んで徳の高い人間にならないとなかなか戒律を守ることはできない。だから、3人以上で行動して戒律を守れる人間であることを示すのが「托鉢」なのだ。俗人に代わって厳しい修業をして人々を導く僧へのアウトソーシング料が托鉢に応じるということである。物乞いに対する“施し”や寄付は慈善行為であるから、意味が全く異なる。いま、漠然とした内なる疑問が解けた方もいらっしゃるのではないだろうか。
 私は修業側に回りたい。作曲などという面倒(本当に面倒なことだ)なことを、他の人に代わって行うのだ。面倒というのは「手間がかかる」ことであり、手間がかかるということは人生の多くを費やしてしまうということだ。普通のひとにとっていろいろな楽しみとなる事柄、時間を「作曲の手間」に置き換えることを是として生きることを選択した。もちろん、手間がかかってもやり遂げる価値を感じているからであり、畢竟(ひっきょう)、浮世離れしていく。
 ずっと昔、即身仏として有名な「鉄門海上人」の生涯を読んだことがある。殺人まで犯した彼が、ある時開眼し、人々のために独力で数十メートルのトンネルを掘り抜いたり、眼病に苦しむ人々のために自らの眼をくり貫いて眼病治癒を祈願したりする壮絶な内容で(当然脚色もあるだろうが)、私自身若かったせいもあって「我に祈願するもの満願成就せん」という最後の言葉にやたら感激した覚えがある。記憶が怪しいので、この件に関しては鵜呑みにせずに調べることをお薦めしますが、内容は強烈ですからご注意を。
 ところで、いま、これが何度目になるのかは定かではないが「幼年期の終わり」(アーサー・C・クラーク)を読み直している。これを今回は仏教的に読んでいる自分に気づいてちょっと驚いたりしている。著者は後半生をスリランカで過ごしており、スリランカは仏教国である。やはり関連があるのか。