9月22日(火)

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 八ッ場(やんば)ダム建設問題で、前原誠司国交相が「中止する方針に変更予定はない」と発言し、住民が話し合いに応じない姿勢を表明した。当然である。選挙前にマニフェストとしてダム建設中止を掲げたとしても、実際に現場を訪れて事実を把握して正しい判断を下した結果、マニフェストが実行できなくとも恥ではない。むしろ、高く評価されることだろう。作曲工房で学ぶ人たちが国交相の立場にあったら、誰もが正しい判断を下すことだろう。
 昨日の深夜は、録画しておいた映画「おくりびと」(2008)を観た。納棺師という仕事を、思い込みだけで「忌むべき仕事」と思っている人たちを描くことによって、納棺師という仕事の荘厳さを表していた。
 以前、映画公開後に納棺師を目指す人が増えたという記事を読んだが、その人たちは納棺師に憧れたのではなく、真摯に仕事に取り組む姿に打たれたのかも知れない。「職業に貴賎はない」という言葉は信じていないが、少なからぬ仕事は世の役に立ち、誰かの役に立つためならば人は真剣になれると思っている。さらに高い視点から言えば、本当のこと、あるいは為すべきことのためならば、人は全身全霊を傾けることさえできると信じている。
 前原国交相は、現場の住民よりも自分のほうが問題に詳しく、すでに正しい判断をしていると考えていることを窺うことができ、住民も国交相よりも正しい判断ができると考えているのではないか。実際には、どちらもまだ現状の理解には不足があり、お互いが謙虚に真実に到達する姿勢を持つことを願うばかりだ。
 今日の夕食の後片づけ後(当番は “たろ”)、カミさんと“たろ”と3人で、マンガと小説の話になった。娘のたろが「何が面白かったか教えてよ」という。たちまち100冊くらいの推薦本が候補にあがり、思い出が語られていく。少女文学から現代文学まで、マンガの黎明期から成熟期まで、さまざまな本が語られていった。
「本やマンガには出会いの時期っていうのがあるのよ」
 カミさんが持論を展開する。
「たろちゃん、もう遅すぎるのもあるわ」
 カミさんはJ.P.ホーがンの「星を継ぐもの」を挙げた。私の対抗馬はオースン・スコット・カードの「死者の代弁者」だったりする。ところが、そこに「赤毛のアン」が入って「今昔物語 本朝編」が対抗馬、さらに大友克洋の「気分はもう戦争」が飛び込んできて、やっぱりアーサー・C・クラークの「幼年期の終わり」だということになる。芥川竜之介太宰治は外せないというと、円地文子だって外すわけにはいかないとカミさんが応じる。
「今の小説家って、絶対マンガ読んで影響受けてるよね」(たろ)
「ああ、そういえば村上龍の仕事部屋にアキラがあった」(私)
「とむりん、今までで一番面白かったの何?」
「中1の時に読んだウィルスン・タッカーの“明日プラスx”」
「面白かった?」
「今読んでも全然面白くないと思う。でも、当時は息ができなくなるほど興奮した。だから出会いは縁だ、たぶん」
 こんな話が延々と続いて「白鯨」からブラッドベリまで、ごちゃまぜの書評大会となった。結局、最終的には曾野綾子さんの「神の汚れた手」がたろの手許に渡り、田辺聖子さんの「文車(ふぐるま)日記」は私のところにやってきた。