12月30日(水)

47229

 午前中はユリちゃんが来て昨日の続き。ただし今日は数学。最初に彼女が何を理解していないのかチェック。すぐに関数そのものを理解していないこと(問題の解法は知っている)が分かり、2人で架空のドライブに出かけた。
 私が人間カーナビになって走り方を指示する。
「現在地は?」
「えっと、y=0、x=0です」
「いままっすぐ走っている道は?」
「x=0」
 というような感じ。
 二次関数になると急に難しく感じたりするものだが、条件にあう無数の点を想像することに関しては一次関数と同じだ。二次関数によって求められる二次曲線は円錐を任意の平面で切断したときに現れる円錐曲線に等しい。まあ、そんなことはどうでもよい。BSアンテナは放物線を回転させた放物面だし、反射望遠鏡の鏡面もそうだ。周期彗星の軌道は楕円軌道で、それ以外の非周期彗星の軌道は放物線や双曲線とよく一致する(実際には氷の昇華による反作用などの非重力効果などが加わって、ぴったりとは一致しない)。まあ、自然界に存在する条件のひとつであることは間違いなく、理解する意義はあることだろう。それに、xy座標は楽譜とよく似ている。
 
 午後は紫大根を漬けてから、楽譜書き。そして早めに夕食を済ませてカミさんは伊達巻を焼く。ようやく正月っぽくなってきた。私は日付が変わってから、冷えた伊達巻をラップに包んで冷蔵庫に収めるよう命じられている。夜も楽譜書き。年内に仕上げたい作業があったが、予想以上に時間がかかって終わりそうにない。
 つけっぱなしだったテレビから流れる音楽に長男が反応した。
「とむりん、これ何の曲か分かる?」
「んんん・・・、シカゴの曲だが曲名までは思い出せん」
「シカゴって映画のタイトル?」
「いや、シカゴっていうロックバンドだ」
「ふ〜ん、そうか・・」
 気がつけば、シカゴさえ遥か過去の存在になってしまった。
 
 話は変わるが、和声の理解とはどういうことだろうか。機能和声学のルールをレッスンすることは重要であるものの、機能和声学の理解がそのまま作曲に役立つとも思えない。
 機能和声学の礎を築いたラモーは、長三和音が自然倍音に基づいていることを出発点とした。そして第7倍音を認めなかった。属七の第7音は、下属音の高い “こだま”であるとした。ジャズ理論などでも、それはしばしばアヴォイド(回避音)として扱われる。和音にテンションをかけると、アヴォイド・ノートを避けて通ることはできない。これらの扱いについてはクラシック系の作曲家はジャズ・ミュージシャンほど巧みではない。その証拠に平気で不愉快なアヴォイド・ノートをぶつけてくる。これは機能和声学の誤った学習によるものではないか。作曲家本人がそれでよいのだと言っても、聴いたり演奏したりする音楽を選ぶのは聴衆であり演奏家である。聴衆や演奏家が忌避するのは「リズム」なのだろうか、それとも「メロディー」や「楽曲構造」なのだろうか。もっとも嫌がるのはアヴォイド・ノートの存在なのではないか。
 誰だって腐った生ゴミのそばで休日を過ごしたりはしなくない。この腐臭に気づく力を育てることこそ和声学を学ぶ目的ではないだろうか。平行5度を避けてみせるくらいの力がなければ作曲などできないが、平行5度があるがために駄作と言われることもない。しかし、忌避音は別だ。
 では、作業に戻る。