4月6日(火)

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 少し前、母が「もう一度食べたい」と言った店があった。
 母の体調を見ながら、その店に母を連れていくプロジェクトが粛々と進行し、綿密なプログラムが組まれた。駐車場の位置、クルマ椅子の手配、店内への経路など準備は万全だった。しかし今日、すでに母に外出して食事をするだけの体力と気力が残っていなかった。
 私の妹と相談して計画を変更。自宅でその店の「春菜天ぷら蕎麦」を再現することに。午前中は食材の入手のために駆け回ったが、結局、天ぷらはプロには敵わないのではないかということになり「銀座◎一」のものに。蕎麦を打つ暇も技術もないのでそば湯もとれる生蕎麦を手に入れて、居間が「にわか老舗蕎麦屋とむりん庵」となった。大火力の業務用ガスレンジが久しぶりに全力で吠えると、たちまち大鍋に湯がたぎった。
 母が望んだ店は私自身は行ったことがない店だったので、下見に行って食べておいたのがよかった。同等の再現とはいかなくとも、それほど的外れの味にはならなかったはず・・・(だといいのだが)。
 カミさんと息子2人は仕事でいないので、両親、妹、娘の“たろ”と私の5人で楽しく、ちょっと悲しい昼餉となった。
 そこで、妹がとても興味深い話をした。それは簡潔にまとめると以下のようになる。
 「私(妹自身)が、今の私になったのはお父さんとお母さんから認められたからなのよ。誰かから認められないと、人はつながらないの。人とつながることができなかった人は自分や自分の人生を大切にできないと思うの」
 そのとおりだと思った。親のなすべきことは子どもを認めることだ。認めることは褒めることとは少し違う。ありのままを正しく認識することだ。子どもだけではない。対人関係とは相手を正確に認識することだ。誤解しあっていたら正しい人間関係が築けるはずがない。
 食後、テーブル(座卓)には母と妹、私の3人が残った。ここからの会話は、母はほとんど加われなかったものの、非常に有意義で興味深いものとなった。できることなら、その全てをここで公開したいくらいなのだが、それはいずれ音楽コラムなどに昇華されて現れることだろう。
 最後に妹が俳句を始めようかと思っていると話してくれた。そうだ。せっかく俳人の父のもとに生まれたのだから始めるのも悪くない。
 彼女は詩人の清水哲男さんの「増殖する俳句歳時記」で勉強していると言っていた。

http://zouhai.com/

今日の俳句

荒使ふ修正液や桜の夜
校庭に白線あまた春をはる
ペコちゃんもポコちゃんもけふ更衣
吉田明子 『羽音』(2010)所収