6月6日(日)四十九日の法要

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 今日は母の四十九日。金亀山 三学院の副住職がわが家で法要を執り行ってくださった。同時に仏壇の開眼法要も終了。参列したのは私の父を含む私の家族と姉・妹夫婦。親戚・兄弟全員の人間関係が非常に良好であることが私の最大の幸せだろう。
 会食は、母が贔屓にしていた近所の日本料理店、富穂(とんぼ)。とても美味しくて、四十九日とは思えないほど盛り上がった会食となった。墓所がない状態で納骨ができないので親戚関係は参加していない。納骨時に墓苑の紹介を兼ねて、母の弟妹を招待して改めて法要を営む予定。
 帰宅後、父が娘婿や孫を相手に沖縄戦の経験を語った。それは単なる昔話ではなく、座間味島における集団自決事件について調べていた甥が、証言者の中に父の名を見いだしたがための質問に端を発したものだった。一緒に暮らしていても、なかなか聞くことのできない貴重な内容だった。父は、甥に文章化することを約束していた。
 夜、ずっと待っていた吉松隆さん編曲による「タルカス」。番組解説の中で、吉松さんはオーケストラのレパートリーについて私と同じ主張をしていた。それは、オーケストラには時代ごとに新しいレパートリーが必要であるということで、新作が発表されることとレパートリーが加わることの間には大きな違いがある。日本には、シェーンベルクに相当する“すごい”作曲家はいるけれども、ベートーヴェンショパンに相当する作曲家はまだ現れていないということだ。しかし、これは日本のみならず、世界的な現象かも知れない。100年、あるいは200年後に振り返ると、20世紀後半から21世紀初頭にはレパートリーの空白期が生じているかもしれないという危惧がある。吉松さんもそのように思っておられるのかと思うと、百万の味方を得たような気持ちになる。
 昨夜のスコラは「ベースとドラム」の第2回だった。高橋幸宏さんが講師。高橋幸宏さんはいろいろなドラマーのリズムの特徴について細かく語っていたけれども、本当はドラムスの果たす真の意味について掘り下げて欲しかった。
 ドラムスが音楽上の大発明のひとつであることは論を待たない。ドラムスは、単なるロングトーンを音楽に変えてしまうほどの力を持っている。今後、ドラムスは5拍子や7拍子を単純拍子の仲間にしてしまう可能性さえあるのだ。なぜなら日本の伝統音楽にとっては3拍子がすでに、いわゆる“変拍子”だからだ。5拍子の発想で書かれた曲は5拍子であることに違和感がない。同様に7拍子の発想で書かれた曲も同様。
 13拍子で書かれた「エリダヌス」(ウラノメトリア5α)には違和感があるだろうか。