7月3日(土)

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 この週末にはムジカ・ドゥーエの作戦会議を開きたかったのだけれど、カミさんからそれどころではないと言われて断念。家の中のさまざまな用事、母親に関する残りの手続きなどをこの2日間でやれるだけやることに。
 今日最初の用事は、赤羽の叔父から案内があった埼玉県立近代美術館の「第9回埼玉独立展」に行くこと。カミさんと一緒にでかけた。会場で叔父と出会えた。この叔父が私の最初の美術の師匠だった。小学校低学年の頃に見せてもらった美術全集の絵も、その多くを覚えている。偶然だけれど、「独立展」には大学時代のピアノの先生のお嬢さんの絵もあった。
 良い絵がいくつもあった。しかし、良い絵どまりだったと言えなくもない(美術に限らず全ての新作展について言えることだ)。
 作曲も大変だけれど、絵の世界も大変だ。何か新しいことをやろうとしても常に既視感がつきまとう。上手な絵が見たいのでも、まだ誰もやっていない(に違いない)絵が見たいのでもない。本物のインスピレーションに触れたいのだ。そのためには自然(手付かずの大自然というような意味ではない。物理法則という言葉を使うと無機的だから“自然”と書いた)を観察して事実から学び、人類が積み上げてきた過去から学ばなければならない。
 昼過ぎに帰宅。
 夕食後、食卓に「マンガ大賞2010」を受賞したヤマザキ・マリさんの「テルマエ・ロマエ」があったので、ササっと読んでみた。つまらなくはなかったけれど、読者賞である「マンガ大賞」としては少々平凡な印象だった。どの表現ジャンルでもそうなのかも知れないが、最近、発信側と受け手の距離が近すぎるのではないか。
 発信者としてのベートーヴェンレンブラントは雲の上の存在である。彼らは上手だから崇拝されているのではなく、偉大な精神の持ち主だからだと言えるだろう。伝記作者がどんなに彼らを不屈の人間として描こうが、逆に貶めようが、作品そのものを変えることはできない。ゆえに、私たちは作品から作者が高い境地にいることを知ることができる。
 自分自身も発信者であるのに、自分を棚に上げて書いてしまった。まずは私自身が圧倒的な高みを目指すべきだろう。

 ところで、ミュージアム・ショップで「未来映画術“2001年宇宙の旅”」(ピアーズ・ビゾニー著;晶文社 1997年6月10日初版 2001年6月30日7刷)を発見。高価なので迷ったものの、これは図書館で借りて読む本ではないと確信し、思い切って手に入れた。まだ少し読んだだけだけれど、著者のピアーズ・ビゾニーもキューブリックを描くにふさわしい筆致ですばらしい。
 過去に音楽コラムでも書いたように「2001年・・・」は奇跡のような映画だ。キューブリックは天才であり、私たちはこの映画から学ぶべきことが数多くある。この映画には安っぽいレトロフューチャーは登場しない。未だ存在しない未来を描くためのCG技術があろうがなかろうが、描く内容は監督のイメージであることに変わりはない。公開から42年を経てキューブリックの思い描いたイメージは全くといってよいほど色褪せていない。
 作曲する時に、常に、その曲が将来古びてしまうのではないかという不安(むしろ恐怖に近い)があるが、キューブリックのような思慮深さがあれば心配は減ることだろう。

 昨日も年金機構から母宛ての書類が届いていた。死亡届はとっくに提出したはず。しかし、まだ未提出の書類がいくつか残っている。もうエネルギー切れ(手続き書類は見るのもいやという感じ)。明日は、残ってしまった重要な手続きをするつもりだが、それに手をつけるために必要なエネルギーは膨大だ。