7月26日(月)

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 急に閃いて、昨日から捜索していた「振り子のように」のハードコピーを発見。またまた閃いて別名でPCに検索をかけて、フィナーレ(楽譜浄書ソフト)のバージョン2006倉庫から楽譜ファイルを発見。3α向きの内容だが、3βに収録することになるだろう。
 午前中に「猫たちの不思議な踊り」を生録音してウェブにアップロード。
 明日は「雨の土曜日」「カンティレーナ」「星の子守歌」という人気曲3連発を録音できるとよいのだが。「星の子守歌」の最新版はプラルトリラーの位置(そもそも、この曲はプラルトリラーの練習曲として1976年に書かれた)が初稿と数ヶ所変わっており、それがあまり良い感じではないので熟考して決定稿を作らなければならない。
 
 ところで、私は「楽しい曲」を書く気がない。「喜び」は表現したいが「楽しさ」を表現したいとは、全く思わない。これは言葉遊びではない。私があるべきと考える音楽は「楽しみ」などという小さなものではない。教えなくとも「音楽は喜び」と言えるような子どもを育てるのが、理想のレッスンの一形態だと思う。人は「楽しみ」は我慢できるが「喜び」は我慢できない。「楽しみ」がなくなると「がっかり」するが、「喜び」の逆の感情は「悲しみ」である。「喜びの島」対「楽しみの島」、「悲しみの聖母」対「がっかりの聖母」(楽しみの反意語は苦しみ。「楽あれば苦あり」の楽と苦も反意語)。
 日常生活の楽しみは潤滑油のようなもので、むしろ必要なことだろう。しかし、音楽が単なる楽しみでは安っぽく感じてしまう。モーツァルトベートーヴェンの音楽の凄さは、少しも「安っぽさ」がないところだ。
 
 今日の午後、レッスンの合間にウラノメトリア第5巻シリーズのファイルを眺めた。「夢の後で」「移り気な秋の舞曲」「昔のソルツィーコ」「主題と変奏」など、おそらく作曲技法上でも演奏テクニックでも、ちょうど今の私にぴったりのレベルだと思った。つまり5巻あたりがもっとも力を発揮できそうな気がしたということだ。
 作品の質から見たウラノメトリアシリーズの最高傑作は「第3巻ガンマ」であると考えているが、第5巻なら、それを超えられるかも知れない。