8月24日(火)

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 日曜・月曜とウラノメトリアの作業が進まない日が続いていたが、その2日間は今日のためにあったに違いない。2日間出なかった答えがポンポンと躍り出て、ストレス解消の一日となった。最大の収穫は、序文に書いた日本の鉄道開通が明治6年のくだり。「日本の鉄道創世記」(中西隆紀著;河出書房新社)を読んで、明治5年であることが分かった。中学時代くらいからずっと明治6年だと誤って記憶していた。あるいは、誤った記述を記憶してしまった可能性もある。
 もし、ウラノメトリアが海外向けに翻訳される時があるとするならば「フランス革命」を例にとったほうがよいのかとも思ったが、熱さを感じる鉄道開通にした。よくよく調べてみると、歴史家のアーノルド・トインビーも明治維新以後に短期間に達成された日本の近代化を「奇跡」と述べているようだった。
 
 23日のニュースだが、詩人の佐藤春夫(1892-1964)の長男で星槎(せいさ)大学学長の佐藤方哉(さとう・まさや)氏(77歳)が、京王線新宿駅のホームで、よろけた酔客(42歳)に押されて線路に転落、電車に接触して亡くなるという痛ましい事故があった。ホームに転落防止柵か、あるいはドア開閉式のクローズドプラットフォームであれば起こらない事故だっただろう。
 徐々に増えてきてはいるが、早く全ての駅に導入されればよいと思う。
 まだ起きていないので、何の対策もとられていないもののひとつが新幹線の乗客保護だろう。高速鉄道の事故の致死率が高いであろうことは容易に想像できる。まず、全ての座席を進行方向の後ろ向きにして、航空機と同様のシートベルトを用意すべきだ。新幹線の安全技術がどれだけ高くとも大地震は防げないし、踏切がなくとも跨線橋からのクルマの落下事故がないとも言えない。線路上に落ちたクルマとの衝突はあり得ることだ。
 もうひとつ、国立音大の作曲科の准教授が覚醒剤使用で逮捕されたというニュースもあった。ただでさえ“作曲家”という職業は“怪しい職業”の上位にいるのに、ますます地に墮ちるのではないかといった危惧がある。
 少し前までは作曲家もカッコいい職業だったのかも知れないが、クラシック作曲界の一部トップが前衛ボケしてからは、現代音楽界が前衛同人化して、コンクールで賞をとれば取るほど音楽愛好家から乖離して行くという妙な事態となった。こういう人たちは、なんとか音楽財団からは委嘱が来ても、演奏家や音楽愛好家団体からの作曲委嘱は少ないのはないか。現代音楽の作曲家は、一般社会から見るといてもいなくてもよい存在になりかけているように思えてならない。
 繰り返し書いてきたように、音楽を後世に伝えるのは、その曲を演奏したいと情熱を傾ける演奏家と、聴きたいと切望する聴衆だけだ。評論家がどれだけ褒めようと、演奏家と聴衆が求める音楽だけが愛され続けていく。音楽がどれだけ高度で高尚であったもかまわないが、人々に愛されない(たぶん作曲者自身も心の底からは信じきれない)音楽は、作曲者が没した時点で消え去ることになる(本物ならば、再発見はあり得る)。
 前衛ボケと書いたが、本来、前衛とは来るべき未来を先取りする姿勢を指すはずだ。それが永遠にやってくることのないレトロ・フューチャー(昔の未来)であれば、前衛ではなく“前衛ボケ”と言われても仕方がないだろう。真の前衛ならば、人々を啓蒙して目を開かせる努力をすべきだろう。それができなければ作品は忘れられて行く。
 フレスコバルディやモンテヴェルディベートーヴェンは真の前衛作曲家だった。彼らが道を拓き、人々が後に続いた。

 妙なエピソードをひとつ。エラい先生に「どうして今の作曲家は難しい曲ばかり書くんだろうね。私なんか全然分からないよ」と言われた。その十数分後、私の曲がステージで演奏された。演奏会後の楽屋で、同じ先生から「どうして君はもっと難しい曲を書かんのかね? ああいうほうがカッコいいじゃないか」。
 本当の話である。