12月9日(金)

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 昨日は3回目の歯科治療。治療の必要なところが4ヶ所もあったのに、なんと全て終了。過去に通った歯科医が、ちょこちょこと治療して「また来週」という感じで長期間通ったのに比べて圧倒的な手際の良さだった。今後は年に2度ほど定期検診に通うつもり。

 さて、昨日の日記の続き。
 いわゆる現代音楽の作曲家たちは表向きには「無調を目指したこと」になっているが、実際には「音楽性」を否定する方向に一目散に進んだ。「音楽性」の定義とは何かと問われそうだが「ノイズは音質として区別できるが個性は感じない」と答えておく。
 多くの現代音楽作曲家が調性音楽の持つムードを否定することを音楽語法としたために、音楽作品の没個性化が一気に進んだと言えるだろう。それぞれの曲の区別はつくが、個性は感じないという微妙な世界になってしまった。たとえて言うならば、写真を比べれば確かに同じものはない「入道雲」だが、印象はひとまとめに「入道雲」と感じるのと似ている。
 これを「書き尽くす」のは非常に困難であると感じてしまう。さらに難しいのは、聴衆が、その区別に付き合いきれないことだろう。
 たとえばフランク・マルタンの「小協奏交響曲」は主題が12音のセリーで書かれているが、調性音楽と同じようにはっきりとした曲の個性を感じる作品である。「厳密には無調ではない」と批判する人もいるかも知れないが、ならば無調の優位性についての説明が欲しい。無調のほうが調性音楽よりも優れているという認識の上での発言であるならば、ぜひとも説明して欲しいものだ。
 かく言う私は調性音楽の絶対的な支持者というわけではない。調性の有無はそれほど重要ではないと考えているだけだ。その曲に出会っただけで人生が有意であったと思えるような曲を書くことが最優先であって、演奏され続けることによって時代を超えて生き伸びる曲でなければ意味がないとさえ思っている。なぜなら時代を超えられなかった曲は、忘れ去られる前に「つまらない」という評価を下されるからだ。