7月23日(土)

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 先ほど、思い立ってテレビの電源を入れたところ「今日正午にアナログ放送は終了します」というようなメッセージが表示されていた。明日正午以降、チャンスとばかりにテレビ視聴そのものをやめてしまう人も少なくないのではないだろうか。
 少なくとも我が家では息子も娘もテレビは全く観ない。1日は24時間しかないのでテレビに割り振る時間がないのだ。
 私は観たい番組がある。テレビはアナログ+地デジチューナーでよいから録画機を用意しなければ(アナログ画質でなら、いま使っているレコーダーでも録画できる)。

 今日はラヴェルのレッスン。昨日はベートーヴェンだった。大作曲家というのは、それに関わる(演奏したり、聴いたり、アナリーゼしたりする)人の人生や人生観を変えてしまう力がある。そもそも作曲するという行為には、それが伴ってこそ芸術としての意味が生まれるのだ。
 もし私の書いた曲に深く共鳴して、数十時間に及ぶ人生の一部を練習と演奏に費やしてくれる人がいなければ、私の曲は書かれなかったのと同じことになる。ちょっと気の利いた曲などを書いていても、そんなことは意味がないと常日頃主張している根拠のひとつだ。
 ベートーヴェンを知ってから人生が多少なりとも変わってしまった経験をお持ちの方は多いはずだ。ベートーヴェンを弾く(聴く)ために24時間のうちのいくらかの時間を割り当てるようになったことだろう。そして理解が深まるにつれて「ああ、毎日をのんびり過ごしている場合か」と奮い立ったりする。
 私の場合は、平日は寝坊するのに、週末には目覚まし時計をセットして休日は早起きしてベートーヴェンの楽譜を誰よりも深くアナリーゼしてやるぞという野望に燃えたりする。そして、ピアノを弾いてもよい時刻になったら早速鍵盤に向かい、夜遅くなってピアノが弾けなくなると、またアナリーゼに戻るというような生活をしたことがある。まるで訳の分かっていなかった中学時代の話。
 しかし、今も似たようなものだ。生活の全てが望む曲を書くためにある。もし大作曲家たちがいなければ、あるいはその存在に気づかせてくれた何人もの師に出会うことがなければ、もっと楽に生きていたことだろう。しかし、楽になんて暮らしたくないのだ。大変なほどやる気になるというものだ。

 仮に文明の痕跡のない時代の地球上に、着の身着のままの現代人1000人だけが暮らし始めたとしたら、有人宇宙船が飛ぶまでにどれくらいの時間が必要だろうか。
 自然の資源やエネルギーを利用してガラスや金属を取り出し、道具を作り、薬効成分も薬草などから再発見して抽出していかなければならない。人の身体の構造なども最初から調べなおさなければならないかも知れない。世界地図も世界を探検しないと描くことはできない。そうなると、原始人1000人でスタートしたほうが速いような気がしてくるのだが、いかがか。
 ところが、現代人は多かれ少なかれ偉大な先人たちの志に感動したことがあるはずだ。原始人との最大の違いはそこにあるだろう。私たちを凡人と非凡な人とに分けるのは能力よりも、志と覚悟のほうが大きいはずだ。
 偉大な芸術家、科学者、スポーツ選手、政治家、まあジャンルはどれでもよいけれど、そういう人たちにインスパイアされることなく生きるだけはもったいないことだ。
 
 最後に、ニュースによると中国の高速鉄道が追突事故を起こして脱線、うち2両が高架橋下に落下して死者・負傷者が出ている模様。日本では新幹線の追突事故は置きにくい運行システムになっている。ということは中国は車両技術を海外から導入して運行システムは独自のものなのだろうか。


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低線量被爆の脅威を解き明かした本の発刊を知らせるブログ