8月10日(水)

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 画家の野田弘志さんの作品にリンゴが5つだけ描かれているものがある。油彩かと思ってよく見ると色鉛筆だったりする。
 写実の画家にとっては、描こうとする主題に与える画材による差などは少しも影響しないのだろう。画材がなんであろうと、結果は写実だからだ。それはアンドリュー・ワイエスと息子のジェームズ・ワイエスにも言えるだろう。父親はテンペラがメイン(ドライグァッシュという水彩の一技法も用いる)、息子は油彩だが、どちらも写実である点が最も強く表れていて画材の影響は(重要だけれど)小さい。

 私が音楽を発想する時も、それと似ている。機能和声で書いても、部分調で書いても、あるいは主題が12音であってもそれほど大きな差はないはずだ。単純拍子であっても混合拍子や、めまぐるしく拍子が変わる「変拍子」であっても「字余り・字足らず」は目立たないようでありたいと願っている(実現は難しい)。
 そもそもの誤りは、シェーンベルクが12音技法で定めた「セリーの前半6音は、後半の6音によって和声付けがなされ、後半はその逆」というルールの正当性の弱さにある。このルールでは忌避音が必ず生ずることになり、まるでホワイトノイズのような一面的な響きしか生まれなくなる。極端な例を挙げるならば、スネアドラムのヘッドの張力を少し変えて叩けば、全く違う独奏曲であると言い張れることになる。
 以前にも書いたように忌避音を言葉で説明するのは難しいが、再挑戦。
 機能和声で説明するとI度からVII度までの13の和音を並べると、全ての構成音が同じになる。つまり、それらは同一の和声の転回形ということになり、機能和声でありながら機能の意味を持たなくなる。ところが、それぞれの和声からいくつかの音(2音か3音)を除くとはっきりとした機能を取り戻す。その「取り除いた音」も忌避音の一種である。
 機能和声における不協和音の定義は可能だが、“いわゆる” 現代音楽における「不協和音」というのは、まとめて定義することはできない。黒板をチョークで強くこするような不協和音がカッコいいとか、気持ちがいいというマゾヒスティックな作曲家は別として、非和声音として登場すれば気にならない和音が冒頭にフォルテで鳴らされると気持ちが悪いという例は枚挙に暇がない。伝統的な耳を持つ聴衆(決して保守的という意味ではない)は、実験的前衛音楽の何を嫌うかと言えば、それこそが忌避音だ。
 要するに、音楽の「ホワイトノイズ化」を決定づける音が忌避音だと考えればよいのかも知れない。
 12音セリーを主題としながらも巧妙に忌避音を遠ざけた作曲家の一人がフランク・マルタンだった。彼の「小協奏交響曲」は実に美しく響く。その透明感は、むしろ機能和声では得られないものなのかも知れない。ベルクの方が先だけれど、彼も自らの美的センスで忌避音の使用が少ない。ただしベルクはウェーベルンへの対抗心もあったのかも知れないが、4度音程の連続跳躍、5度、6度、7度の連続跳躍などを行い、結果的に忌避音を生み出してしまったりしている。
 20世紀の作曲家たちは足し算で和声を作っていったが、それが許されるのも9の和音までだった。そこから先は引き算で和声を考えるべきだったろう。

 念のために書き添えておくが、作曲家はどのような曲を書いてもよい。一切の禁忌はないといってよいだろう。しかし、聴衆もまた同様である。どんな曲を選んで聴こうが自由であることは間違いない。
 音楽を後世に伝えるのは「その曲を演奏したい人と聴きたい人」の組み合わせだけだ。評論家でも出版社でもない。
 忌避音は「悪臭」に喩えることもできるだろう。無神経に使うと反射的に嫌悪されたりする。しかし、悪臭も薄めていくと良い香りになることもある。だから使い方はセンス次第だ。
 「解りやすい音楽を書くべきだ」と主張する人もいる。砂糖菓子のような口当たりのよいものは飽きられるのも速いのではないだろうか。
 結局、音楽に一切のごまかしは効かない。本物だけが時代の波を乗り越えて後世に受け継がれていくことになる。「受け継がれる必要などない」という意見もあるかも知れないが、若い頃に書いた曲が「うわ、古臭い!」という反応で迎えられ、その受け継ぎ拒否の瞬間に立ち会っても考えが変わらないだろうか。
 


>太陽で大規模なフレア(表面爆発)が報告されている。太陽フレアの分かりやすい解説動画。英語だけれど大丈夫。

・How big are solar flares?