1月24日(火)

240745

 昨夜の雪は長く降り続くことなく止んだのに、積雪は5cmを超えた。あさは、すでに雪ではなく氷になっていた。
 クルマの雪を下ろすのに、氷を砕くという感じだった。広い道路は走れそうだったが、日陰の生活道路はアイスバーンとなっていて、わずか7〜8mの距離を走れそうになかったので、モリアキ翁の通院を明日に延期することにした。
 ニュースでは、凍った路面に足を滑らせてけが人が多数出ていると報じていた、クルマのスリップ事故も多発した。
 そんなわけで、今日は夕方のレッスンまで楽譜書きに専念した。
 途中、休憩がてら知らない作曲家の動画を探して聴いたりした。2010年作曲などという曲もあって、なかなか興味深かった。しかし、若いと思われるある作曲家は、過去の音楽を聴いていないのではないかと思わせるような不用意な曲をたくさん書いていた。たくさん書くことは評価したい。作曲家にとっての練習は作曲だからだ。しかし、その前に過去の音楽遺産を継承しなければならない。
 音楽を聴くというのは難しい。作曲家が曲を聴くと言った時、それは作曲家の個性を聴くのではなく、完成度を聴きとろうとする行為をさす。私たちには過去の膨大な音楽遺産がある。しかも、本当に模範となるのは僅かな曲だ。
 こんな例はどうだろうか。今日の新聞の広告欄に「変な給食」という本の宣伝があった。給食のメニューひとつひとつはあまり問題がないのだが、その組み合わせに問題があることが少なくない。おでんとコッペパンなどはどうだろうか。管理栄養士も数多くの制約の中で苦労しているとは思うのだが、栄養士の全てがきちんとした食の環境で育ったとは限らない。洗練された伝統料理を、作法も含めて食べる機会がなければ、文化としての食の流儀は継承されないこともあるだろう。
 音楽もそうなのだ。音楽を聴くという行為は、たとえ全身全霊を傾けても表層だけにとどまることが少なくない。音楽そのものを聴き取らなければ、私たちは過去から続く音楽の伝統や遺産を受け継ぐことができない。もっとも良くないのが、作曲家の個性を受け継いでしまうことだ。それでは亜流にしかなれないし、そもそも作曲とは呼べない。
 過去の大作曲家たちがたどり着いたことは学ぶことができる。その上にたって、新しい道を切り開くのが作曲家本来の仕事だ。
 数世紀を経ても聴く人を虜にするような音楽を書かなければ、いつかその曲は酷評される時が来ることだろう。