3月10日(土)

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 たまには音楽の話題。
 あかねちゃん(中2)のレッスンで1β用に書いた「すみれ(仮題)」という拍子が変わる曲の楽譜を見せると、とても気に入ってくれた。それに気を良くして1βの第1曲に予定している連弾曲を一緒に弾くと、またまた気に入ってくれた。こんなうれしいことはない。結局彼女は「とうに夜半を過ぎて(もちろん仮題)」という連弾曲を一番気にいって、彼女が連想した3γの「物語」を弾いたりもした。ついでに同巻に収録されている「ウィンドワード」を久しぶりに弾いたら、その完成度の高さに「1βは書き直しかも」と思ってしまった。

 夕食後、1βのために書いている「プロコフィエフ風に(当然のことながら仮題)」と「ストラヴィンスキー風に(当然すぎるくらい仮題)」を見なおしていたらアイディアに煮詰まってしまった。お茶でも飲んで出なおそうとリビングに降りていくと、カミさんが偶然にも1942年版のほうのディズニーアニメ「ファンタジア」の「春の祭典」の部分を観ていた。
 ストコフスキーの指揮は速い。作曲されてから30年もたたないうちの演奏だ。今年は初演から99年目。ストラヴィンスキーの頭の中に曲が生まれてからは1世紀を経たことだろう。

「こういうの観てると、また聴きたくなっちゃうのよね」

 クラシック音楽には疎いカミさんも、日フィルの定期会員だった頃があるのだ(私には一度もそのような経験はない)。だから好むと好まざるとに関わらず「春の祭典」のライブにも出くわしたわけだ。
 そのようなわけで、録画してあったN響アワーの「春の祭典」をカミさんが再生する。セミョン・ビシュコフの指揮。ストコフスキーの演奏とは本当に時代の違いを感じる。
 そういえば、先日、久しぶりにマイルスの「クールの誕生」を聴いたら、その古色蒼然とした響きに唖然としたものだ。

「この曲(春の祭典)好き?」
「今でも好きだけど高校生の頃は大好きだったね。暗譜しちゃうくらい」

 作曲家なら誰だって徹底的にスコアを読み込むことだろう。意表をつくオーケストレーション、オケならではの復調の絡み合い。重要な部分はピアノ用に書きなおして弾いて構造を理解したものだ。
 テレビ画面ではファゴットコントラファゴットが5本並んで演奏している。かっこいいなあ。ストラヴィンスキーは5管編成でも緻密だ。私は3管編成だって、ここまで緻密に書く自信はない。
 春の祭典の凄さは、そのシンプルさにある。登場するメロディーはどれも親しみやすく、しかも短いフレーズでできている。それが複調化されたり、アクセントの位置が意識的にずらされたり、対位法的に組み合わさると、あっという間に “現代” になってしまう。彼は10色のカラーインクを使ってスコアを書いたという。大学生の時、作曲を師事していた土肥先生に手書きスコアのカラーファクシミリを見せてもらったことがある。PCの楽譜作成ソフトウェアにその機能はないと思う(レイヤーごとに4色までは使える)。
 
 それから紅茶を淹れて、身体を温めてからFMの「名曲のたのしみ」を聴いてラフマニノフにも圧倒されて縮こまってしまった。ロシア人は凄すぎる。
 明日(もう今日だ)は3.11。



>にわかには信じられないような郵政民営化に向けての世論操作の証拠。世論操作しやすい人々をB層と呼ぶらしい。B層にならないようにしなければ。

郵政民営化・合意形成コミュニケーション戦略(案)